2017年連続文化セミナー イタリア・ルネサンス人物伝――激動の時代を生き抜く ご報告
第3回 サヴォナローラと(対)マキァヴェッリ

シリーズ第3回は、6月7日(水)に、愛知大学名誉教授の須藤佑孝先生に、「サヴォナローラと(対)マキァヴェッリ」についてお話いただいた。(30名参加)。

ルネサンスという時代は、多くの分野で実に多くの魅力的な人物を生み出し、それぞれに活躍の舞台を与えた。中心都市〔国家〕フィレンツェは、その舞台の中心となっていた。サヴォナローラとマキァヴェッリは、この舞台で、政治、信仰、思想の分野で活躍した、そして悲劇的な終末を迎えた代表的人物である。

とはいえ、二人の魅力は、実に対照的である。~~と~~、と並列すればそれぞれの特色を薄めてしまう、あるいは無くしてしまう。やはり二人は、「と」によってではなく「対」によって並べた方がよい。

そこで今回、須藤先生は、地図で1400年代後半のイタリアと共和政フィレンツェを確認し、次に年表に沿ってルネサンスという時代の大枠を見、その中でのフィレンツェの社会、政治の情況を見、さらにその中での二人それぞれの活動を見、思想的特色を見るよう、時間の許す限り試みられた。

ジローラモ・サヴォナローラは1452.9.21フェッラーラの生まれ、ニッコロ・マキャヴェッリは1469.5.3フィレンツェの生まれである。この時代、フィレンツェをめぐる社会、政治の情勢は、ペストの流行、メディチ家独裁の成立と崩壊、外国勢力のイタリア侵攻など激動している。

サヴォナローラは、1490年ころから激しい説教をはじめ、1491年にサンマルコ修道院院長に選出される。そしてフランス王シャルル8世のイタリア侵攻に伴い、シャルルとの折衝団の1員として政治世界と関わり始める。政体変革、共和制の復活を提唱するが、やがて教皇、協会と対立し破門される。1498.3.2サヴォナローラの説教を聞いたマキャヴェッリは、その感想・批評をローマの教皇庁書記官(事実上のフィレンツェ大使)リッチァルド・ベッキあてに送っている。「サヴォナローラは時勢に応じて<マントを代え>、<嘘言>を弄している。」と。1498.5.23サヴォナローラはフィレンツェ政庁宮広場で絞首刑と同時に火刑に処せられる。遺灰はアルノ川に流される。

マキャヴェッリの家は彼が生まれたころには落ちぶれていて、納税出来ず生涯正式な職に就けなかった。1498.7.14に政庁の委員会の書記官に任命され、初めて定職を得て活躍するが、1512.11.7フィレンツェ<共和制>の解体により全役職を解かれ、市外追放となる。10キロ南東の山村にある山荘(アルベルガッチョ~ぼろ宿の意)に隠棲し、「強いられた怠惰」(F.シャポー)の日々を過ごす。「ディスコルスィ」、「君主論」、「軍事・戦争論」、「フィレンツェ史」などを執筆。1527年フィレンツェでの復職の願いも絶たれ、同年6.21永眠。サンタクローチェ教会に埋葬。

サヴォナローラもマキャヴェッリも「人間の心をつかまなければダメ」という点では共通した考えを持つが、マキャヴェッリは「宗教は政治の最良の道具と考え、何か信じるもの―神―を作り、一緒に信じているふりをしろ」という。「君主論」6章において、「武装せる預言者は皆、勝利を収め、武装せざる預言者は滅ぶ。・・・これは民衆が変わりやすいことにもよる。・・・民衆を説得するのは容易だがそのままの状態に留めておくのは困難で、彼らが信じなくなったら力ずくで信じさせることができるよう備えておくことが必要。・・・サヴォナローラは民衆に自分の体制を長期にわたって守らせることができなかった。・・・自分が命じた新しい制度を彼らが信じなくなったとたん、その制度とともに滅んでしまった。」と述べている。“VIRTU”というものをサヴォナローラは「美徳」と考え、マキャヴェッリは「力」と考えた点に2人の考えの違いがはっきりと出ている。

<講師プロフィール>
須藤 祐孝(すとう ゆうこう)
東北大学法学部卒。愛知大学法学部教授。現在、名誉教授。主要著作:読む年表・年譜『ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ―サヴォナローラ、マキァヴェッリの時代、生涯』(須藤・油木共編著、無限社・岡崎)。R.リドルフィ『マキァヴェッリの生涯』(翻訳・註解、岩波書店)。サヴォナローラ『ルネサンス・フィレンツェ統治論―説教と論文』・『出家をめぐる詩と手紙』(いずれも編訳・註解、無限社・岡崎)など。

(山田記)