坂本鉄男 イタリア便り オペラの舞台裏

 オペラでは主役歌手はもちろんのこと、重要な脇役の歌手にも、万一の病気や事故に備えて代役を準備するのが一般的だ。だが、歌手も人間であるだけに、主役と代役の2人とも不調で歌えない最悪の事態も起こりうる。
 去る12月7日、ミラノ・スカラ座の今シーズンがワーグナー作「ローエングリン」の上演で開幕したが、まさにこの時、最悪の事態が起きた。白鳥の騎士ローエングリン(名テノールのヨナス・カウフマン)の妻エルザ役に決まっていたソプラノのアニヤ・ハルテロスと、控え役が開幕前々日に風邪で歌えなくなってしまったのだ。
 そこで劇場側は初日だけの代役として、昨年夏、ドイツのバイロイト音楽祭で同じ役だった美人ソプラノ歌手アンネッテ・ダッシュと交渉。彼女は5日夜ミラノに着き、開幕前日の6日は朝8時から一日中、舞台稽古に臨んだ。しかも生後10カ月の乳児の母であり、稽古の合間には授乳もしなければならなかった。
 オペラは大成功で、エルザ役のダッシュの歌は盛大な拍手を受けた。彼女は翌朝8時の飛行機でドイツに帰り、夜にはモーツァルトの「偽の女庭師」を歌ったという。
 華やかなオペラの裏では、想像もできないようなことが起こりうるのである。
坂本鉄男
(12月16日『産経新聞』外信コラム「イタリア便り」より、許可を得て転載)